高浜虚子 落葉降る下にて
■ページ1■今日の文章
骨肉もなお死ぬるものだということは父母の死以来一応合点されて
いながら、それが自分の子供の上になると、何の理解無しに死なぬ
という堅い自身を持っていたものがこの時以来がらりと崩れてしま
ったのである。・・・私はその後度々墓参をした。
凡てのものの亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が鏡に映るように
その墓表に映って見えた。
「これから自分を中心として自分の世界が徐々として亡びて行く
その有様を見て行こう。」
私はじっと墓表の前に立っていつもそんな事を考えた。
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■ページ2■解説
鎌倉は扇ケ谷の寿福寺に高浜虚子の墓がある。同じ場所に実朝や
政子の墓のある場所で、鎌倉の中でもとても静かな場所である。
この文章は、高浜虚子の「落葉降る下にて」から引用しました。
「悲しい」とか「寂しい」というような言葉は一言も出てこない
けれど、心に迫るものがあるのは、まさに虚子の筆力にある訳です。
もともと何か読者の持っているものを刺激することを計算して
書かれる文章とは凡そ異なる書き方であることに気づかれることで
しょう。
本来の散文というものは、人の心を駆り立てるものではなく、
むしろ心を静め、凡そ言葉にはならなかったであろう感情を
読者の心に伝える性格のものではないかと思います。
短いが、ずっと後まで心に残る文章の一つではないか、と思います。


