マックス・ホルクハイマー 道具としての理性にもの申す
道具としての理性にもの申す
■今日の文章■
理性の危機は個人の危機のなかで表明される。
個人の能力として理性は発展してきたのだからである。
伝統的哲学が個人と理性について抱いてきた幻想。
その永遠性についての幻想は消え失せつつある。
個人は、かつては、理性をもっぱら自己の道具として考えてきた。
今日、個人は、この自己物神化の正反対のものを体験しつつある。
機械が運転手を振り落とし、虚空を盲滅法に突進している。
完成の瞬間に、理性は非合理で無能力なものになった。
■解説
こういう文章を読むことには抵抗があるかもしれない。
しかし、そんなに長くないので、何度か辛抱強く読んで
頂きたい。
かつて理性が信じられ、理性が中心となった時代がある。
しかし理性が極度に全面に出て、支配する側になった時、
逆説的ではあるけれども、悲劇は起きた。
理性と合理性を追求した近代国家が20世紀に何をしたか?
大儀名分を掲げて大喧嘩をした見苦しい姿を露呈したのでは
なかったか?
民族の血を優先し、大殺戮を平然とやってのけたのでは
なかったか?
この文章を書いた人間は一貫して「理性」が社会でどのよう
な役割を担ってきたか、盲目に理性を信じた人間がしでかし
た非合理的な行動を冷徹に見つめてきたのだと思う。
真の理性の復権を求めたこの文章の書き手こそ、
フランクフト学派を率いたマックス・ホルクハイマー、
その人である。


